依存した生き方から、自立へ
学校を卒業して、ほとんどの人は就職します。家業を手伝うのも同じです。
学校の先生や大人達は「社会に出て働いて、お金を稼いで生活すること」が自立と考えています。
現実はどうでしょうか?
本来、自分の生活があり、その中に仕事やさまざまな人間関係が存在しているはずなのですが、従属して習慣的に働く生活を続けていくと、仕事中心の生活に慣れてしまい、それが自ずと楽な生活となり、新たな変化を望まなくなるのは人の常です。
働いて時が経つにつれ、自分の中に自由が失われていくことを感じても、それが、会社や組織に依存している生き方になっていることに気づく人は少ないのです。
私も来年は、赤いちゃんちゃんこを着る歳になります。
ボランティアや、いろいろな集まりで出会う人は、私よりも年上の方がほとんどです。
その方達と話をしていると、60歳に退職してから社会観ががらっと変わった方が多いのにも驚きました。
退職して、初めて自分が会社という組織に長年従属して生きていたことが分かったと。
そして、新たな生活をどのように築き上げれば良いのか・・・模索状態を続けている方が多くいらっしゃいます。
本人は会社に依存して生きてきたとは表現されませんが、現実は「依存」してきたのです。そして、彼らの次の行動は「新たな依存先を見つける」ことに意識が向けられています。どこかの会社や、組織、会に入って、自分の社会的な位置を確定しようとします。
多くの退職者が、「あなたは、どなたですか?」との問いに「私は、○○○会社の・・・です。」と、所属で自分を規定していた自分に再度戻ろうとします。
本来は、組織に所属する、しないに関わらず、例えば「私は、○○○をやっている・・・です。」など、主体としての自分を語ることが自立の証しと言えるのではないでしょうか?ただし、ことばでの説明だけではなく、実態が伴っていることが前提なのは言うまでもありません。
ということは「社会に出て働いて、お金を稼いで生活すること」が自立であるとは言えないということです。
学校教育や多くの大人は、自分を正当化しようとするように子供達に同じ生き方を自立として強要しています。
依存することは悪いことではありません。しかし、問題は依存しているのに、依存していないと思い込んでいることなのです。
心理学者のマズローに言わせれば、物が有り余る社会では、物欲は薄れて「帰属する欲望」が現れると言います。
一流大学出身者であること、一流企業に勤めていること、皆が知っている優秀な会のメンバーであるとかです。自分で自分自身を規定するのではなく、所属している「枠」が本当の自分よりも大切なのです。ですから、枠が無くなれば・・・自身を見失ってしまうのです。
また、依存からの脱却は、会社や組織などの「帰属する欲望」だけではありません。
東北大震災で、多くのコトを「依存」していたことに気づき始めています。
今の生き方で失ったモノは何だったのか。そして、電力や、農業、漁業、地域経済・・・など、それは本当に自分にとって必要なモノなのか?
例えば、原子力か自然エネルギーかで発電方法を論じる前に、多くの電力に依存している生活様式そのものが、本当に自分たちが選択したい生き方なのか、を問うべきではないでしょうか。
多くの人がやってきたことを鵜呑みにせず、自分はどのような生き方、生活様式を選択する。という、自立した考えを広めていくことこそが、これからの新たな日本の将来を作っていくはずなのです。
世界経済の変動によって浮沈する危うい生活をどうにかする方向は、依存しすぎた生き方を改めることからはじまるのではないでしょうか。
依存族を育んだ野性味のない教育
私の周りでもよく聞く「学校は出たけれど、就職先がない」という嘆き。この嘆きを、私は昔から不思議だと思っていました。そして、今や現在の学校教育を変えなければならないと確信しています。
数十年前から親は、兎に角子供を「良い学校」へ行かそうとして、幼いときから投資をしています。良い学校に行って、大手企業、公務員などへの道を目指す。そして、学校ではそのための教育が行われてきたと言っても過言ではありません。それは、農林業や地域産業の担い手を創ることを主目的とはせずに、都会的な生活を目的としています。
一方、グローバル化の進展で日本の企業が必要とする人材は、情報と知識レベルが高く、与えられたテーマをこなす人材から、臨機応変で、競争力のある自立した人材作りに変化しています。かつては後進国であった中国や韓国、インドなどの人材が、グローバル世界を席巻している現状を見ても明らかです。
少子高齢化が進展する日本では、ほとんどの町や村では、「・・・町おこし」「・・・村おこし」と銘打って新しい商業や産業、そして雇用の創出を行おうとしています。しかし、ほとんどが上手くいっていないのが実状です。
何故、上手くいかないのか。それは、働きたいと思っている多くの若者は、職種はどうあれ「与えられるのを待っている依存族」が多く、競争して自分だけは生き残ってやろうとする「野生味」を持っていないことが原因ではないでしょうか。
これこそが、日本の教育内容の欠陥であり、無知な教育者の罪過ではないでしょうか。
◎グローバル化へ重点を置いた教育へ
日本社会には、大きく分けると三つの生活圏があります。動物の生活圏に例えて言うなら、
(1)動物園圏・・・決められた中での競争だが、食いっぱぐれがない。
(2)サファリーパーク圏・・・疑似野生。競争原理が少し働くが、生死を決めるほどの食いっぱぐれがない。
(3)野生圏・・・実力が問われる競争社会、捕まらなければ何でもありとも言える世界。
それぞれの生活圏では、それに適応した生き方が要求されます。
▼(1)動物園圏で必要な教育とは
動物園の猿山の中で、如何に生きるかの教育です。ボスになれなければ、如何に秩序に従属し、序列からはみ出さない様にするかが大切なのです。また、序列の上位を狙うにはどうすればよいかの知恵が必要です。上位のモノや餌を配る飼育員の行動には敏感。しかし、序列が決まれば、働かなくても定期的に餌が配られ大切にしてもらえる公務員のような立場。常に競争心を持つ教育は非難されます。秩序、序列優先教育。
▼(2)サファリーパーク圏で必要な教育とは
財団や社団、NPOなど公務員ではないですが、上手に助成金をもらい、予定調和で競争しない社会を望む教育。公務員などの公的な社会(動物園)の動向を研究して生活をします。助成金や給付の構造と申請方法などの教育。
▼(3)野生圏で必要な教育とは
(1)(2)を対象としないで、消費者、顧客ニーズを対象とした世界。生死をかけた競合が存在し、海外企業が全て競争相手と成りつつある社会。如何にすれば競争に打ち勝つことが出来るか?必要とされるのはグローバル教育。
このように、実際の社会では異なった生活圏があり、自分が棲む生活圏を認識していないと窓際族になってしまうのでご注意!
多くの零細中小企業は、(1)(2)にしがみつこうと必死ですが、グローバル化と少子高齢化社会は、昔のような余裕はなく、(1)(2)から、つまはじきにされる事業者が続出。そこに、就職したい多くの依存族が行き場を失っています。
◎生きるための教育を!
親も学生も、そして最も罪深い教育者こそ、目覚めよ!と言いたい。従来の教育投資を続けた結果を直視すれば、教育の方向性や目的が明らかに間違っているのは明々白々です。
義務教育や高等学校、大学と試験によって学生を評価をするのだが、最も肝心な教育制度や、教育成果においての評価は成されていません。
学校を自由に選択できるのだから、選択された時点で評価はされていると言われるかもしれないが、動物園教育の内容や方法で、小中学校をやられては、もう取り返しはつきません。
そして、教育者である「野生の存在を知らない先生」は、動物園の飼育員であり、「野生の意味が理解できず、野生教育の必要性や、それが教育の死角になっている」ことすら認識できない嘆かわしい現実があります。
では、どうやって野生教育が実現できるか?
これからの子供達のために大人達が、まず真剣に現実を認識しなければならないと考えます。
「教育効果の焦点」時代変化に対応した教育を!
上記につづき、生きるための教育の必要性を今回も説きたいと思います。今回は、野生教育を実現する方法の前に、もう一つの「教育の死角」を提示したいと思います。
それは、現在の教育内容が時代変化に対応していないために、高校や大学を卒業した時点で学んできた学習内容のほとんどが、使えないという問題です。大学を卒業しても就職できずに、再度専門学校や、資格取得の勉強をする羽目になる人の多さがそれを証明しています。
時代変化への対応
めまぐるしい時代変化に対応しようとインターネットや生きた英語教育を学校教育に取り入れようとしながら、実態はどうも現実的ではありませんでした。グローバル化が進むコトは、日本語以外の英語などの国際言語を使用できることが、国際化の前提となるのは当たり前です。しかし、日本の教育は明治の翻訳をするための英語教育をずーっと続けてきたのです。
いま、テレビやネット広告で石川遼を広告塔として、スピードラーニングという実践的語学教育商品が多くの指示を受けています。不思議なのは、何故、義務教育でスピードラーニングをやらないのか?効果がないのか?もっと別の方法があるのか?
この、やらないことの事実が教育の実態です。現実と乖離しているのです。非現実的な教育。教師のための教育内容としか思えません。
実践的教育とは
次に、「インターネットを課題とする教育」がほとんどありません。私が言っているのは、インターネットという環境変化が世界を動かしているのにそれを教育課題としていないのはまったくもっておかしいと思います。
インターネットで最も重要なのは、「検索する能力」と考えます。
昔なら、人にモノを尋ねること、辞書で調べる、書物で調べることです。知らないことがあれば、すぐに調べることが出来れば、知識を全て持たなくても、目的に応じた必要な知識を選択し、組立て結論を出すことが出来るのです。20世紀末までは、図書館の存在や経済力の格差が知識の格差と相関していたと思います。
しかし、インターネットは、その格差がありません。格差があるのは、前述しました「語学」と「検索能力」です。
「検索能力」とは、如何に、分からないことを探し出すか、関連したデータを集めるか・・・など、それらを比較検討して驚くほどの幅広く深く、多くのデータから選択することが出来るのです。
インターネット社会では、知識や情報の収集ではなく、増殖続ける情報の渦から必要な情報や知識を「選択する能力」を鍛える必要があるのです。選択は、判断が必要です。状況に応じた判断力を養う必要があるのです。
このような例以外にも、多くの教育カリキュラムによって、無駄な教育時間が費やされています。
例えば、小学校5年生(10歳)の少年や少女に必要な教育で、特に将来就職に影響する教育に限って考えてみると・・・それは、どうあるべきか。
例えば、12年後に就職すると想定すると、世の中はどう変わっているか?30歳(20年後)ごろの社会は、どう変わっているか?
何を必要としているか?どのような人を必要としているか?どのようなモノやサービスを必要としているか?
様々な産業の変化は?そして、グローバル化は?などなど・・・将来の企業や社会が必要(ニーズ)とする教育を想定して、教育カリキュラムを組まなくてはならないのです。そして、教育者の意識変化がそれに対応する必要があります。もっと言うなら、教育者になる資格内容が「時代変化」に対応しなければならないのです。
現在の教育は、「時代変化」に対応していないのです。ですから、21世紀の加速して変化する時代に日本の教育は、ますます無力になっているのです。
教育は重要です。しかし、目的を失った方法には未来はありません。学校に子供を行かせることが、友達作り以外に果たしてよいのか?日本の教育現場は、多くの無駄を抱え、立ち止まった教育環境であることを親たちも自覚する必要があります。
何を教えればいいのか、先生も分からない。親も分からない。
しかし、現実を自覚して、変化を判断して決断して前にすすむことこそ、これからは必要だと思います。
失敗すれば、やり直せばいい!それを繰り返すこと。
まずは、それしかないと考えます。立ち止まってはいけない!のではないでしょうか。